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YMWEの理念


 YMWEが一つの吹奏楽団として、どのような理念を掲げて活動をしていくかということは、言うまでもなく大変重要なことです。いま、世の中には沢山の吹奏楽団がありますが、理念なしで活動している楽団は一つもありません。あらゆる組織は、理念、あるいはコンセプトというものを持たねば存続できないでしょう。

 したがって、YMWE創設後間もない現段階で、創団者のひとりである私が、この団体の理念について述べておくことは必須であるように思われます。今回は、その二つの理念(と一つの本音)についてお話しておきたいと思います。

1.吹奏楽の古典を演奏する団体である

 吹奏楽という演奏形態は、音楽史の文脈の中でどのように位置付けられているのか、私の不勉強のせいもあって、正直言ってよくわかりません。その起源を古代に求めることもできるでしょうし、メフテルのようなものに求めることもできるでしょうし、あるいはブラス・バンドの発展形態として述べることもできるでしょう。

 私たちが今日において演奏するレパートリーは、20世紀以降に作曲されたものが多数を占めます。そう考えてみると、隣接領域であるクラシック音楽の歴史と比較して考えてみると、わりあいに新しいジャンルである、ということは言えると思います。

 そもそも「古典」とは何なのか、という広義の議論に関しては、また別の機会に述べてみたいと思いますが、私がYMWEの理念として言うときの「吹奏楽の古典」とは、おおむね「スーザ・ホルスト以降」というふうに考えています。ちなみにスーザとホルストは、アメリカとイギリスという国の違いはありますが、ほぼ同時代を生きていた人物たちであるという点は、非常に興味深い点です。

 従って、私がYMWEの演奏曲目として挙げる曲は、基本的にスーザ・ホルスト以降の曲目となります。

 では時代の上限(新しさの上限)はどこにおくかと言うと、これに関しては、とくに制限を設けるつもりはありません。それだったら、要するに普通の吹奏楽団と同じなのではないか、と言われるかもしれませんが、そこで「古典」という言葉の意味合いが出てきます。

 私が思うのは、吹奏楽において、すでに「古典」として定着している曲は少ないということです。吹奏楽の「古典」は実は、現在進行形で形作られている、と考えています。そしてその「古典」を形作るという作業は、音楽について言えば、演奏する、ということに他なりません。むろん、その領域を主に担っているのは、プロフェッショナルの演奏家たちであり、団体であり、それらを理論的に支え、刺激を与える研究者であり、おそらく批評家たちであるのですが、吹奏楽という演奏ジャンルの裾野の広さを考慮すると、生まれたてホヤホヤのアマチュアの一団体に過ぎないYMWEであっても、ある曲を、「古典」と解釈し世に問う権利は発生するのではないか、と、きわめて僭越ながら、そのように考えます。

 上に長々と書いたことを一言で要約すると、「地球が滅びない限り、100年先でも演奏されているであろう、すばらしい曲のみを演奏する」ということになります。

 ちなみに、この「古典」には二つの視座でアプローチしていくつもりです。一つは、グローバルな視座です。世界中の吹奏楽のレパートリーの中から、「古典」と呼ぶにふさわしい曲を選んでいくということで、上記のスーザやホルストはその一例です。レイフ・ヴォーン・ウィリアムズやパーシー・グレインジャーはもちろん、アルフレッド・リードやデレク・ブルジョワまでに到る作曲家たちの音楽を研究し、演奏していきたいと考えています。

 もう一つはドメスティックな視座です。日本における吹奏楽は、これもきちんと研究したわけではありませんが、おそらくかなり特殊に、かつ高度に発展した形態であると思います。無論、それは「部活」と「吹奏楽コンクール」と切り離せない議論になります。したがって、過去の吹奏楽コンクール課題曲を主とする邦人作品の中から、「古典」と呼ぶにふさわしい曲を検討し、演奏していきたいと思っています。

2.「昔取った杵柄」を復活させるためのリハビリ施設的な団体である

 先日おもしろい話を聞きました。とある友人が所属している高校のOBバンドの話です。かつて高校時代トロンボーン をやっていたという60歳すぎの男性がいて、その人は高校卒業以来、楽器に触っていなかったそうです。還暦の祝いに、娘さんがその男性に新しいトロンボーン をプレゼントしました。数十年ぶりに楽器を手にした彼は、どこで吹けばいいかわからなかったのですが、高校時代のOBバンドがあるらしいことを知り、その門を叩きました。そのバンドはOBOGであれば誰でも受け入れるというスタンスだったので、温かく歓迎されました。ただの良い話なんですが、おもしろいのは、友人が言うには、その人、練習の度に見違えるように楽器が上手くなっていくそうなんですね。

 私はYMWEという場所は、そういう人たちにこそ来る場所であって欲しいと思います。久しぶりに楽器の蓋を開けて、久しぶりに合奏に参加したいと思った人が、「そういえばYMWEというところがあるな」と思ってもらえるような、そういう楽団にしたいと思います。

 だから、敢えて言いますが、私はYMWEの団員に、いわゆる演奏上の技術は一切求めません。このへんのことは、いわゆる一般楽団では、「あいまい」になっていることが多いです。私はそういう理念上の「あいまいさ」が一般楽団の諸問題を引き起こすということを多々目撃してきました。

 だから、すべからく楽団というものは、理念的なゼロか100かを選択すべきだと思います。そして私は理念的なゼロの方を選びます

 ただし、逆に、経験もあり、しっかりとした技術を持ち、それを自覚している奏者に対しては、優しく、温かく、寛大な気持ちで合奏に参加し、初心者や、初心者に相当するようなリハビリ中の奏者を丁寧に導くことを求めます。むろん、私自身もその中(導いていく側)に含まれます。

 私はそれが、優れた演奏家のいわばノブレス・オブリージュだと考えています。技術もあり、知識もあり、音楽的なセンスを持つにもかかわらず、リーダーシップに無自覚で、恵まれた能力を己の為にのみ使い、周囲に苛立ちをぶつけるような残酷な奏者も、いろいろな場所でたくさん見てきました。

 その反対に、優れた奏者であり、かつ、優れた振る舞いをし、知らず知らずのうちに多くの奏者を育ててきた人も、これまた沢山目撃してきました。

 私は思うのですが、舞台に立つ人の中で、「今日は下手くそな演奏を、悪い演奏をしてやろう」という人はいません。少なくとも舞台に上がる以上、「いい演奏をしよう」と思って袖を踏みます。私はそこを共通の土台に、楽団の最大公約数にしたいと考えています。練習の参加頻度や、演奏技術というもの、そしてもちろん「曲の完成度」という考え自体も、相対的な指標であり、まやかしに過ぎないのですから。

本音:吹奏楽がやりたい

 偉そうなことをいろいろと書いたのですが、これらは、楽団を創ると言い出したあとで、人と会って話したり、自分で考えてみたりしたことで、言ってみれば後付けの理屈、理念です。

 私が抱いた最初の欲求は、「吹奏楽がやりたい」ということだけです。

 だからもし、あなたが「吹奏楽がやりたい」と思ったら、ぜひあなたとご一緒したい、ということなんです。


「YMWEの理念」への2件の返信

素敵な理念ですね。賛同しかできません。
昔、K岸先輩という方が飲みの席で仰られていた言葉を思い出したので共有させていただきます。
「音楽は上手い人のためにあるわけじゃない。」

どんな形でも良いのでご協力できれば嬉しいです。

Daikosh,

Je ne sais pas ce K岸先輩, mais j’imagine qu’il est un homme vraiment sympatique. Je voudrais le voir un jour.

Bon, tu jouera naturellement un rôle précieux dans l’OHJM, si tu as occasion de retourner à Kansai, n’hesites pas me contacter. On va boire ensemble.

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